LOGIN黴臭い布団に横になり、天井の染みを見つめていると、
意識とは裏腹に、記憶だけが勝手に遡っていった。――どうして、あの人と出会ってしまったのだろう。
あの頃の私は、できるだけ人目につかないように生きていた。
派手な服も、化粧もせず、 ただ「静かに」「何も起こさず」一日を終えることだけを考えていた。生活のために始めたのが、清掃のアルバイトだった。
古くて、薄暗い雑居ビル。
廊下の電灯はところどころ切れ、 昼間でも影が溜まるような場所だった。そのビルの一角に、
《Kurosaki Creative Works》という、出来たばかりの広告制作会社が入っていた。出会いは、共同トイレだった。
男性用便器を黙々と拭いていたとき、
背後から、気まずそうな声がした。「……あの、すみません」
「お借りしてもいいですか?」振り返ると、スーツ姿の男が、困ったように立っていた。
それが、黒崎俊哉だった。「すぐ終わりますので……」
そう言って、私は道具を片付け、外に出た。用を足している間、
私はトイレの前で、じっと待っていた。今思えば、それだけのことだった。
けれど、俊哉はそれを「律儀だ」と言った。「ありがとう」
「こんな若いのに、大変だね」その日から、何度か顔を合わせるようになった。
気がつけば、
「よかったら、うちで働かない?」 そんな言葉をかけられていた。事務員の仕事は、清掃よりずっと楽で、何より、人に気を遣われることがなかった。
ひかるは、静かにそこで働き始めた。
仕事帰りに食事をするようになり、いつの間にか、付き合うようになっていた。
二年後、俊哉はプロポーズした。
「一緒に生きていこう」
その言葉を、私は疑わなかった。
一緒に住み始めてから、俊哉の会社は、目に見えて大きくなった。
仕事が増え、収益が上がり、やがて彼は、郊外に大きな家を建てた。
「家のことは、ひかるがやってくれればいい」
私は、それでいいと思った。
役に立てるなら、それで。けれど――
いつからだっただろう。俊哉が、夜、帰らなくなったのは。
携帯を伏せて置くようになったのは。
問い詰めると、殴られた。
「疑うな」
「余計なことを言うな」それでも、私は耐えた。
自分が悪いのだと思い込もうとした。そして今日。
相沢玲奈が、現れた。
モデルだと言った女。
背が高く、細く、自然に視線を集める存在。
鏡に映る自分と、リビングに立つ玲奈を、比べてしまう。
化粧もしていない、地味な服。
年齢以上に、くすんで見える顔。――私が選ばれなかった理由は、これだ。
そう思った瞬間、
胸の奥で、何かが静かに崩れ落ちた。玲奈は売れっ子ではない。
それでも、堂々と「モデル」と名乗れる女。そして私は――
何者でもない。仕事もない。
自分のお金もない。
ただ、俊哉のために家を守ってきただけ。
ただ、
選ばれなかった女だった。(私が選ばれなかった理由は……私に魅力がないから?)
その事実が、
ひかるの心から、最後の自信を奪っていった。雨脚は弱まるどころか、さらに激しさを増していた。フロントガラスを叩きつける雨粒が連なり、まるで無数の糸が夜の街を覆い隠しているかのようだった。タクシーのワイパーが高速で動き続ける。それでも視界は悪い。滲む光。歪む信号。ヘッドライトが水面に反射し、道路は鏡のように輝いていた。「もうすぐ着きますよ」運転手の声に、ひかるは小さく頷いた。スマートフォンの画面には、藤崎優の緊急インタビュー。—すべての責任は私にありますーその一文を、何度も読み返してしまう。胸が締めつけられる。どうして、そこまで。自分を守るために、彼が盾になっている。あまりにも分かりやすく、あまりにも真っ直ぐなやり方で。考えれば考えるほど、分からなくなる。距離を置こうとしたのは、あなたの方だったのに。過去を断ち切るように線を引いたのも、あなたなのに。なのに、なぜ……。「ここで降ります」ビルの少し手前で、ひかるは料金を支払った。これ以上、ビルの近くに車を横付けさせたくなかった。報道陣がいるかもしれないし、優の会社の前で騒ぎを起こすわけにはいかない。ドアを開けた瞬間、強い雨が肩を打つ。冷たい。髪もコートも、一瞬で濡れていく。だが、不思議と頭は冴えていた。むしろ、研ぎ澄まされている。走ろうとした、そのとき。後方から、甲高いブレーキ音が響いた。振り返る。白い乗用車。スピードが落ちない。……滑っている。タイヤが水を切る嫌な音。ハンドル操作を誤っているのが、遠目にも分かった。理解した瞬間、体が動かなかった。逃げなきゃ。そう思うのに、足が地面に貼りついたように動かない。時間だけが異様に引き伸ばされる。光が迫る。世界が白く弾ける。次の瞬間、強烈な衝撃。金属がぶつかる鈍い音が夜の闇に響き、衝突の勢いでひかるの体が宙へ放り出された。だが。痛みは、遅れてきた。体が宙に浮く感覚。重力が消えたような、一瞬の無音。そして、アスファルトへ叩きつけられる。呼吸ができない。肺が空気を求めて痙攣する。「きゃああ!!」「事故だ!!」「誰か救急車呼んで!!」通行人の悲鳴が雨音を切り裂いた。傘を差した人々が足を止め、瞬く間に小さな人だかりができる。倒れたひかるを見て、一人の男が息を呑んだ。「……久遠ひかるじゃないか!?」ざわめきが広がる。「え、本当に!
雨の夜だった。細かな雨粒がフロントガラスを絶え間なく叩き、ワイパーが規則正しくそれを押し流していく。滲んだ街の灯りは水彩画のように揺れ、現実と記憶の境界さえ曖昧にしていた。撮影を終えた久遠ひかるは、車窓に流れる光をぼんやりと眺めていた。炎上騒動から三日。現場は、何事もなかったかのように回っている。スタッフの態度も柔らかくなった。スポンサーも戻った。監督も以前と変わらぬ口調で演技の指示を出す。すべてが、元通り。……元通りのはずなのに。胸の奥に、小さな棘のような違和感が残っていた。取り除こうとすると、かえって存在を主張する、そんな厄介な感覚だった。マネージャーがバックミラー越しに言う。「今日はもう報道陣いませんね」「そう……」短く答える。声が思ったよりも乾いていた。そして、不意に聞いた。「藤崎社長は……何か言っていましたか?」マネージャーは少し驚いた顔をした。ひかるの方から彼の名前を出すことは、ほとんどなかったからだ。「いえ。いつも通り、“問題が解決したならそれでいい”とだけ……」ひかるは視線を落とした。らしい、と思う。助けたことすら、伝えない。恩を感じさせない。貸しを作らない。まるで最初から、何も起きていないかのように処理する。……ずるい人。心の中だけで呟く。そうでもしなければ、胸の奥がわずかに揺れてしまうから。そのとき、車が赤信号で止まった。交差点の大型ビジョンが、突然切り替わる。ニュース速報。『人気女優・久遠ひかる 新たな疑惑』空気が凍った。運転手が思わず音量を上げる。画面に映し出されたのは、五年前の写真だった。少し若いひかる。そして隣には、藤崎優。距離の近い、親密そうな一枚。ざわめくアナウンサーの声。「当時、既婚者だった藤崎優さんとの関係が……」そこで映像が切り替わる。ホテルのエントランスを、二人が並んで歩く姿。記憶が、ひかるの心臓を掴んだ。息ができない。「……嘘」かすれた声が漏れる。もう終わったはずだった。風化したはずだった。なのに、どうして、今さら……『略奪愛ではないかとの声も上がっています』『当時の妻との関係悪化の原因は』「消して!」思わず叫んでいた。運転手が慌てて画面をオフにする。だが遅い。もう見てしまった。封じ込めていた記憶が、音を立てて開いていく。あの頃、まだ何
それは、あまりにも静かに始まった。ドラマの撮影初日。スタジオに入った瞬間、久遠ひかるは空気の違和感に気づいた。視線。止まる会話。逸らされる目。慣れているはずだった。だが今回は、質が違う。腫れ物に触るような遠慮と、好奇心が混ざっている。マネージャーが小声で言った。「気にしないでください。すぐ収まります」ひかるは何も答えず、台本を開いた。震えはない。もう、折れることはない。そう思ったときだった。スタッフの一人が慌てて駆け込んでくる。「プロデューサー!マズイです!」現場がざわつく。タブレットの画面を覗き込んだ誰かが、息を呑んだ。「……トレンド1位だ」嫌な予感が、背筋をなぞる。マネージャーのスマートフォンが震え続けている。やがて観念したように、画面をひかるへ向けた。見出しが躍っていた。『久遠ひかる 人気俳優・真柴涼真と極秘交際か』一瞬、意味が理解できなかった。「……は?」かすれた声が漏れる。記事には、昨夜の写真が掲載されていた。レストランの前。確かに、真柴涼真と並んで立っている。だがそれは……ドラマの顔合わせの帰りに、偶然店が同じだっただけだ。会話もほとんどしていない。なのに。記事は断定調だった。『倒産騒動の裏で熱愛発覚!!』『スポンサーは激怒か!?』『倫理観に疑問の声』ひかるの指先が、わずかに冷える。熱愛。今、このタイミングで。悪意しかない。「違います」はっきりと言った。だが、その声は雑踏に溶ける。遠巻きに見ていた共演者の一人が、小さく呟く。「やっぱり問題多いな……」聞こえていた。全部。そのとき、プロデューサーのスマートフォンが鳴る。顔色が変わった。「……はい。ええ……分かりました」通話を切る。沈黙。そして、重い声。「スポンサーの一社が、降りる可能性があるそうです」空気が凍る。誰もひかるを見ない。だが分かる、原因は自分だ。胸の奥が、ぎゅっと縮む。それでも。ひかるはゆっくり顔を上げた。「撮影を続けましょう」驚いたように、何人かが目を見開く。「私のことで現場を止めるわけにはいきません」声は、驚くほど静かだった。折れていない。むしろ、芯が強くなっている。だがその頃。FJエンターテインメント本社では、まったく別の空気が流れていた。「発信元は
FJエンターテインメント本社、最上階。磨き上げられた黒い床に、天井から落ちる静かな光が反射している。足音さえ吸い込まれてしまいそうなほどの静寂の中、久遠ひかるは重厚な扉の前に立ちながら、小さく息を吸った。胸の奥がわずかに波打つ。緊張しているのか、それとも別の感情なのか、自分でも分からない。ただ一つ確かなのは、ここへ来るまでの道のりが、決して穏やかなものではなかったということだ。エントランスへ入る瞬間、報道陣に囲まれた。「事務所倒産について一言!」「不正を知っていたのでは?」「主演は降板ですか?」無数のマイク。無数の視線。フラッシュの光が瞬きのように弾ける。逃げ場はなかった。それでも、ひかるは足を止めなかった。前だけを見て歩いた。だが、不思議と恐怖はなかった。昨日、あの言葉を聞くまでは。「主演は久遠ひかるのままで」胸の奥に、まだ微かな余震が残っている。救われたはずなのに、安堵だけでは終わらない。むしろ、心の奥に触れてはいけない場所を揺さぶられた感覚だった。ひかるは橘に促され、扉を入った。広い執務室。窓の向こうに広がる都市の景色。曇り空の下、無数のビルが静かに立ち並んでいる。そして、藤崎優。デスク越しに書類へ目を落としている。顔を上げない。まるで、彼女が入ってきたことなど些細だと言うように。そこにいるのは、かつて自分が知っていた男ではなく、徹底して感情を削ぎ落とした経営者だった。「座ってください」事務的な声。五年前、あの夜に聞いた声とは別人のようだった。ひかるは静かに腰掛ける。沈黙。ペンが紙を走る音だけが響く。時計の秒針すら聞こえそうなほど、空気は張り詰めていた。この距離。手を伸ばしても届かないほど遠い。かつては、こんな沈黙さえ苦しくなかったのに。やがて優は書類を閉じ、視線を向けた。その目に、感情はない。何も映していないようで、すべてを見透かしているようでもある。「単刀直入に言います」一枚の契約書が差し出される。「あなたを、FJエンターテインメントが専属で受け入れる」ひかるの指先が、わずかに強張る。分かっていた。それでも、実際に言葉にされると重い。まるで運命を突きつけられているようだった。「ただし、条件があります」来た。ひかるはまっすぐに優を見る。逃げない視線。もう逃げるつもりはない。優は一拍
その知らせは、あまりにも唐突だった。 まだ午前の光がビルの隙間から差し込む時間帯。執務室には静かな緊張が満ちていたが、その均衡を破るように扉が勢いよく開かれる。「社長、大変です」 朝一番で執務室に飛び込んできた橘の表情を見た瞬間、藤崎優はただ事ではないと悟った。 普段は冷静な彼女が、ここまで顔色を変えることはない。「久遠ひかるさんの所属している《リバース・アクターズ》が……」 一拍。 空気がわずかに重く沈む。「本日付で、破産申請を出しました」 優の手が止まる。 ペン先が書類の上で静止したまま、数秒が流れた。 胸の奥を、鋭いものが突き刺したような気がした。(……ひかるの会社が倒産!?) その名前が浮かんだ瞬間、押し殺していた感情が一気に動き出しかける。 だが、それだけだ。 驚きも、動揺も表に出さない。 長年かけて身につけた元俳優という経営者の仮面は、こういうときほど崩れない。「理由は?」「粉飾決算です。数年前から経営が破綻していたようで……スポンサーが一斉に手を引きました」 窓の外では、薄曇りの空が広がっている。 今にも雨が降り出しそうな灰色の雲。 嵐の前の静けさに似ていた。 優の頭の中では、すでにいくつもの可能性が走っていた。 ひかる自身に責任がなくても、世間は待ってくれない。 疑いは勝手に生まれ、根拠のない言葉が広がっていく。 彼女がどれほど真っ直ぐ生きてきた人間かなど、面白半分の記事を書く者たちには関係がない。「主演ドラマは?」「制作がストップしています。局側はキャストの総入れ替えを検討中と……」 つまり、久遠ひかるは、降板の可能性が高い。 優は椅子に深く腰掛けた。 背もたれに体重を預けながら、視線だけが鋭くなる。 頭の中で、瞬時に数字が走る。 違約金。制作費。スポンサー契約。放送枠。 そして何より、世論だ。 ひかるほどの女優が、倒産した事務所に所属していた。 それだけで憶測が生まれる。 不正に関与しているのではないか。 ギャラの未払いは? 税務は? 次に来るのは、必ずこれだ。 スキャンダル。「……もう出ています」 橘がタブレットを差し出す。 ネットニュースの見出しが並ぶ。『トップ女優・久遠ひかる 事務所破産の衝撃』『知らなかったでは済まされない?』『主演ドラマ白紙か
雨が降っていた。 春先の雨は嫌いではない。冬の名残を含んだ冷たさと、どこか新しい季節を予感させる柔らかさが同居している。街の輪郭を滲ませ、看板の色も人影も境界を失わせながら、余計なものを静かに洗い流してくれるようだった。 藤崎優は、車の後部座席から巨大なガラス張りの建物を見上げた。 灰色の空を映し込むその外壁は、どこか無機質で、近寄る者の感情を拒むかのように冷たい光を放っている。 東央テレビ本社。 かつては何度も俳優として訪れた場所だ。 若手だった頃、期待と不安を胸にこの回転扉をくぐった日のことも、主演が決まった夜にスタッフと笑い合った記憶も、すべてこの建物の中にある。 だが、もう違う。 あの頃の自分とは違う。 そして――今日、この場所で再び会うことになるかもしれない、あの女との関係も。「社長、五分後に制作局との打ち合わせです」「ああ、分かった」 短く答え、優は車を降りる。 黒のスーツに、無駄のない足取り。背筋はまっすぐに伸び、視線だけで周囲を黙らせるような静かな威圧感をまとっていた。 五年という歳月は、彼から“優しすぎた男”の面影を削ぎ落としていた。 今の肩書は、芸能プロダクション《FJエンターテインメント》代表取締役。 俳優・藤崎優を知る者は、もう業界でも少ない。知っていたとしても、それは過去の情報に過ぎない。 そうなることを、自分で選んだ。 表舞台から退き、人を支える側に回ることを。 誰かの人生や未来に責任を持つ立場になることを。 それは逃げではなかった。 少なくとも、そう思いたかった。 けれど、五年前のあの日から逃げ続けてきたものが一つだけある。(久遠ひかる……) 名前を心の中で呼んだだけで、胸の奥がわずかに痛んだ。 もう五年だ。 忘れていてもおかしくない。 いや、忘れなければならなかった。 自分から手放した女なのだから。 エントランスに入った瞬間、空気がわずかに揺れた。「あれ……藤崎優じゃない?」「え、俳優辞めたんじゃ……でも、やっぱりカッコイイ」「今、社長らしいよ」 小さなざわめきが背後に生まれる。 聞こえている。だが振り向かない。 過去に興味はない。 そう決めたのだから。 けれど本当は、興味がないのではない。 思い出せば、そこにはひかるがいる。 俳優だった自分。 『誰より
その日、私は掃除をしていた。誰に言われたわけでもない。ただ、そうしていないと、ここにいる理由が完全に消えてしまいそうだったから。朝から冷たい雨が降っていた。窓の外は灰色で、部屋の中まで薄暗い。以前なら、こういう日は俊哉のために温かいスープを作って、帰りを待っていた。「寒かったでしょ」そう言ってタオルを差し出す時間が、当たり前にあった。でも今、その場所にいるのは私じゃない。私は、ただこの家を維持するためだけに存在している。雑巾を強く絞り、リビングの床を拭く。フローリングに映る自分の姿はぼんやりとしていて、まるで本当に“空気”になってしまったみたいだった。ソファの上には、
朝、キッチンから聞こえてきたのは、見知らぬ鼻歌だった。ダイニングに入ると、相沢玲奈がエプロン姿で立っていた。手際よくフライパンを振り、まるで何年もここに住んでいるかのように。「おはようございます」私に向けられた笑顔は、丁寧で、冷たい。「俊哉さん、朝はトースト派なんですよね?ひかるさん、知ってました?」私は答えられなかった。そんなこと、聞かれたこともなかったから。俊哉は新聞を読みながら、何事もなかったように言う。「ひかる、邪魔」「そこ立ってると暗い」暗い。存在そのものが、邪魔だと言われているようだった。テーブルの上には、私の席はなかった。「今日から、生活費は管理し直
夜のリビングには、古い映画の音だけが流れていた。白黒に近い色調の、恋人同士が静かに抱き合うシーン。窓の外では、雨がまだ降っている。時折、車の走る音が濡れた道路を滑っていった。部屋の照明は落とされ、テレビの光だけが、ぼんやりと室内を照らしている。そのソファには、二人がいた。黒崎俊哉と、相沢玲奈。玲奈は俊哉の膝の上に横向きに座り、腕を首に回しながら、指先で彼のシャツの胸元をなぞっている。まるで、自分だけが愛されていると確認するように。俊哉の手は、彼女の背中から腰へ、ためらいもなく滑っていた。二人の距離は近すぎて、見てはいけないものを見ている気分になる。「この映画、好きな
「顔も、よく見たら大したことないし」私は俯いて、黙っていた。食卓へ落ちる照明の光が、やけに白く感じる。まるで病院の無機質な灯りみたいだった。温かいはずの食卓なのに、そこには何の温もりもない。目の前には、自分が作った料理。少しでも美味しく食べてもらいたくて、材料の少ない冷蔵庫の中で工夫した。以前なら俊哉は「うまい」と言ってくれた。それだけで嬉しかった。でも今は違う。その料理は、二人の悪意を受け止めるためだけに並んでいるようだった。「そういう顔するの、やめて。なんか……私が悪いみたいじゃない」玲奈の声が鋭くなる。その口元には笑みが浮かんでいるのに、目だけは冷たかった。